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2013年1月

2013年1月30日 (水)

体罰問題-忘れられている視点,体罰(暴力)を使っている人間は感情的になっている

体罰問題についてはもう書かないでおこうと思ったのだが,仕事がはかどらないときはブログを書きたくなるという“いつもの発作”が出てきた(ー_ー)!! 。明日は大阪で仕事があるのでこんなことをしている暇はないのだが。。。 短く,さっさと書こう。

昨日は,女子柔道日本代表,園田隆二監督の「体罰・パワハラ」について選手が日本オリンピック委員会(JOC)に告発,というニュースがでて,大阪・桜宮高校の体罰・自殺事件に触発されての告発か,と思ったが,これについてはどうもそうではないらしい。

今朝のテレビをみていたら,告発状は桜宮の事件が報道される以前にJOCに提出されていて,ようするにJOCはそれを発表せず,うやむやにしようとしていたらしい(内部調査らしいことはしたようだが)。

教育現場での体罰とオリンピック選手やプロのスポーツチームでの体罰は次元が違うという考え方や意見もあるだろうが,一つ共通しているところがある。

体罰に関しては,元巨人軍の桑田真澄氏は桜宮の事件が報道されてすぐ意見を述べ,わたしもその考えに共感している。体罰では強いチームは作れない,という桑田氏の意見に対し,強いチーム(選手)を作るには体罰は必要,というような考えを持つ人はまだいるようだ。

今回,告発された園田隆二監督は,柔道の技術面では研究熱心で,評価されているというのを新聞で読んだ。ただ,女子柔道のオリンピックでのメダル数をみると(ネットで調べて数えてみた),シドニーが4個(金1,銀1,銅2),アテネ6個(金5,銀1),北京5個(金2,銀1,銅2),ロンドン3個(金1,銀1,銅1)と,成績はむしろ下降ぎみだ。

園田隆二監督は北京五輪後の2008年に代表監督に就任したらしく(それ以前もコーチはしていたようだが),これを無理やり関連づけると,はげしい体罰を活用した園田監督は(少なくともそれ以前と比べて「強いチームを作れなかった」ことになり,桑田氏の体罰では強くならないを証明していることになるのではないか。

もっとも,北京以前の監督が園田監督よりもさらに厳しい体罰稽古をしていて,それに比べて,園田監督の体罰はむしろ緩かった,というのなら話は少し変わってくるが。。。

ただ,日本人のメダルが減っているということは,その分,外国の選手がメダルをとっているということであり,外国では,日本のチームで普通に行われているような体罰はありえない,ということなので,そうすると,体罰をしている日本のチームが弱くなり,そうでない外国の選手が強くなっている,とみることができる。

これも新聞かなにかで読んだだけだが,ロンドンオリンピックのとき,平手打ちをくらわせて選手を叱咤する園田監督をみて,止めに入った(入ろうとした?)海外の監督がいたとかいなかったとか。。。

またまた長くなってきたが,一連の体罰問題で欠けている視点としてわたしが思うのは,体罰を加えている人間は必ず感情的になっているだろう,という点だ。もちろん,その度合いは個々の監督や場面場面で異なるだろうが,おおざっぱに想像すると,1)選手(チーム)のやる気(気合)が不足していたり,2)監督に指示されたとおりの動きができなかったり,3)凡ミスをしたり。ま,みな同じようなことだが,監督にとって「腹立たしい」「はがゆい」「苛立たしい」動きを生徒(選手)がしている(した)ときだろう。

そういう場面であれば,監督は当然,感情的になっている。そして,感情的になれば,判断力も狂う。この判断力とは,例えば,試合中であれば,劣勢になっている試合を立て直すための指示や選手交代などの判断。あるいは,練習中であれば,自分の叱り方(体罰の仕方?)が選手(生徒)が受け入れられる程度のものであり,選手(生徒)の成長を伸ばすようなものであるかどうか,といった点に関する判断力である。

いま問題になっている桜宮高校や女子柔道監督の体罰問題で最も重要な点はここだとわたしは思う。監督自身の心の反応(感情)を十分モニタリングしたうえで,冷静に指導,叱咤し,その手段の1つとして,“鉄拳制裁”を使っているのか。

だが,そこまで冷静に自分の感情をコントロールできる人間であれば,生徒を自殺へ追いやるほどの体罰を行うはずはない。オリンピックの代表になろうかというような選手から告発されるほどの体罰になるはずがない。

結局,体罰で問題を起こす監督は,「チーム(選手)を強くする」という大義名分に依存して,冷静な判断や自己抑制を失っている人間なのだと思う。

「体罰で強いチームは作れない」理由は,体罰に頼って選手を指導しているような監督は,畢竟,指導者としても,そのスポーツ(武道など)の知識や能力(戦術や練習方法,作戦)においても劣っているからではないだろうか。

さらに話を教育全般に広げて,生活指導で生徒や自分の子どもをしかる(しつけ)の場合でも同じことだと思う。軽いビンタや怒鳴りつけるくらいのことは,教育やしつけでは必要悪だとわたしも思う(ただ,このような状況になると,学校でビンタなどはもってのほか。ちょっと強い口調での叱責も“体罰”や“ハラスメント”と取られるリスクがあるだろう)。しかし,その場合でも,「自分のうさ晴らし」として叱っていないか。「頭にきて」叱っていないか。

「頭にきて」反応するときは,喧嘩をするときだけだろう(喧嘩だって,体力や知力が同等であれば,冷静さを失った方が負ける可能性が高い)。

以上,自戒を込めて。さて,仕事しよ。

2013年1月29日 (火)

「経済成長っているの?」- こういう“庶民の心に訴える”的記事は大嫌いだ。心配すべきは成長の要不要ではなく経済水準の維持であり,あるいは,低下への覚悟だ。その覚悟があるならこういうふざけたことを言え。

朝,ネットのニュースを見ていて気になった記事があったので少し書いてみる。

リンクはすぐに外されると思うので,全文を以下に引用しておく。また,念のため書いておくと,わたしはこの記事で紹介されているバーのオーナー(引用では名前は○○としました)の生き方は素晴らしと思うし尊敬する。ただ,こういう記事の書き方(しらじらしいメッセージ)が嫌いなのだ。

<経済成長っているの? 30代で脱サラ 「減速」生活 2013年1月29日 07時06分
最低限のものだけ置き、店を営む=東京都豊島区池袋で

 東京・池袋のまち外れに「繁盛しないこと」が目標の小さなバーがある。一日五人の客があれば良いと、営業は夜の六時間だけ。しかも週に三日は休む。脱サラして店を始めた○○さん(42)の年収は半分近くに落ち込んだが、たっぷりの時間と安らかな毎日を手に入れた。

 車を減速するように、生き方も速度を落としてみる。「ダウンシフト(減速生活)」と呼ばれる生き方が先進国で静かに広がる。行きすぎた経済成長と拡大志向の反動だ。

 ○○さんも企業戦士だった。一九九四年、バブル崩壊後の就職難の時代に、大手百貨店の内定を勝ち取った。店の顔である一階の婦人雑貨担当を志願し、売りまくった。ハンカチを買いに来た客にエアコンの営業まで行う。同期百四十人中、トップで昇進した。

 だが、少しずつ心の中のわだかまりが大きくなる。右肩上がりの成長はとっくに終わっているのに、会社は「もっと売れ、もっと利益を」と求め続ける。ついにはノルマ達成のため、自腹を切って買い物をするようになった。欲しくもないのに買ったスーツは二十着、靴は十五足以上。封も切らずにほこりをかぶった。

 価格破壊が流行語になり、大量生産、大量消費の「使い捨て」に歯止めがかからなくなった時代。消費の最前線で確かに収入は増えた。でも息苦しかった。二〇〇〇年秋、三十歳の誕生日に辞表を出した。

 わずか六・六坪の店を四年後にオープンした。年収は六百万円から三百五十万円に下がったが、妻と息子の三人家族で暮らすのに十分だ。それ以上は求めない。思い描いたのは、昔からある八百屋や鮮魚店。「このやり方で、人生をやり直してみせる」という反骨心もあった。「使い捨て」時代の反省から、値は張っても上質なオーガニック食材にこだわる。口コミで少しずつ客が増えると、休日を増やした。田畑を借り、念願だった米や大豆作りを始めた。

 一〇年秋に自らの経験をつづった著書「減速して生きる」を出版した。今の働き方に疑問を持つ人たちが店を訪れたり、メールをくれたりするようになった。その中には、靴修理業を始めた人もいれば、離島で鍼灸(しんきゅう)師になった人も。減速生活のありようはさまざまだが「皆仕事をする時間が減った分、社会貢献をしている」。昨年から、地方議員らでつくる「緑の党」の共同代表も務める。

 社会全体では、まだ小さな変化かもしれない。「一輪の花は空から見ても分からないが、花畑になるためには一輪一輪が咲くことが大切」。池袋の小さなバーからその種まきが始まっている。 (東京新聞・森本智之)>(引用終わり)

  わたしは埼玉南部に住んでいるので池袋は近いし,“行きつけ”のバーもある。この記事に書かれている店にも行ってみたいと少し思った。また,このバーのオーナーの生き方は悪くはないと思うし(自分にはマネできないが),ある意味,すごいと思う。

ただ,この記事の見出し,「経済成長っているの?」をもう一度読み,最後の「一輪の花は空から見ても分からないが云々」を読んでどうも違和感を感じた。この記事を書いた記者にである。

この記事を読むと,池袋に6.6坪の店を持ち,年収350万円の暮らし(店は一日6時間しかオープンしない)が,それ以前の生活と比べてさも「つつましい生活」,のように印象づけられるかもしれないが,必ずしもそうではないと思う。

ようするにこの記事は「モーレツサラリーマンでがんがん仕事をしていたときに比べれば収入は半減したが,このバーのオーナーのような減速生活は,(経済的には)貧しいかもしれないが,心も時間も余裕のある豊かな生活」とでも言いたいのだろう。

このバーのオーナーに関してはそれは事実かもしれない。ただ,小さな店を8年間も続けていくことに伴うたいへんさには全く触れていない。それは,デパートのモーレツ社員とは違った種類の苦労かもしれないが,それはそれで決して楽ではないはずだ。

さらに,わたしがもっともひっかかったのは,年収350万円(三人家族)の生活なら「経済成長なし」でも可能と言わんばかりの書き方だ。

わたしは経済(学)のことはまったく素人だが,それでも,現在の日本の生活レベルが世界のほとんどの国と比べてはるかに高いことはわかっている。

わたしはアフリカのナイジェリアに2年住み,そのほか,長期で住んだことはないが,世界各国(たぶん30か国くらい)を訪れたことがあるが,目の前の現象を素直に見る目があれば,世界中の(日本よりはるかに)貧しい国々が,自らも豊かになろうと必死で生きていることがわかる。ようするにわれわれは恵まれているのだ。

たしかに今の日本がこれ以上,経済成長することは必要でないかもしれないし,また,容易でないだろう。だが,問題は,成長ではなく,維持することなのだ。現在のようにグローバル化した世界で,日本のように豊かになった国は,常に,競争にさらされており,それは,経済レベルの点でいうと,常に,下降圧力,がかかっているということだ。

大きくなった経済という重い荷物を国全体で支えているのであり,それを担っているのは国民なのだ(企業で働くサラリーマンはそのなかのコアな集団だ)。経済成長いるの?などとのんきなことを書いているこの記者は,生活レベルを維持するためだけにも,経済成長をめざさなければならないことにまったく気づいていないだろう。

こんな記事を読んで,みんなが“バラ色の”<減速生活>にあこがれて,気軽に脱サラなどしたら,年収350万円の維持すら容易でなくなるのは必定だ。

現状を維持するだけでも,常に,創意と工夫,努力が必要なのだ。

追記:このエントリーを書いたあと,少しググってみたら,2chにすでにこんなスレができていて驚いた。でも,オレに近い感じの意見多いなあ。

【キチガイ新聞】 経済成長なんか必要ないのではないか 必要なのは安らかな生活 つまり安倍は死ね

2013年1月17日 (木)

大阪市立桜宮高校の体罰問題-雑感

大阪市立桜宮高校バスケットボール部のキャプテンが自殺した事件が大きく報じられ、さまざまな意見がネットやテレビ、新聞、雑誌でも飛び交っている。多くをフォローしているわけではないが、この高校ではバスケットボール部だけではなく、バレーボール部でも体罰が頻繁に行われており、問題になっていたようだ。

最初にこの自殺のニュースをテレビで聞いたとき、わたしは正直「なぜ、自殺するのか」と訝しく思った。体罰が激しかったとはいえ、高校生であれば、反抗や抗議もできただろうし、学校(他の先生)や親に訴えることもできたのではないかと。

実際、このニュースが出た最初の1~2日、テレビのワイドショーなどを見ていると、言葉を選びながらも「体罰もときには必要。特に、スポーツの強豪校などではある程度仕方ない」とか、「どこからが行き過ぎた体罰でどこからが(許容範囲の)体罰かという線引きは難しい」というニュアンスを込めた発言をしている司会者やコメンテーターが結構いた。

一方、「体罰とそうでないものとの区別は明確につく。体罰は絶対に行けない」という、いわば単純かつ(テレビ的に)安全なコメントをしている人もいたが、どうも偽善的というか、視聴者にこびへつらっている感じがして良い印象は持てなかった。

しかし、その後のニュースを見ていると、わたしも桜宮高校の体罰はやはり異常なものであると感じられてきた。体罰というよりもイジメやリンチに近いかもしれない。

理不尽なほど殴られるのであれば自殺を選ぶ前にバスケットボール部をなぜ退部しなかったのか、とわたしなどは考えたが、おそらく、退部という選択肢を考えられないほど恐怖を感じていたか、心理的に追い詰められていたのだろう。この学校が体育(科)で有名な学校であったこともこの生徒が退部を選べなかった理由のようだ。

それでも、親は学校を退学させてでもクラブ活動から引き離すべきだった。ご両親を批判しているのはなく、ただただ無念に思うのだ。

ところが一方では体罰を容認しているような親もいて、ネット上では喧々諤々のやりとりがあるようだ。

桜宮高校の暴力事件(これはやはり体罰ではなく、暴力事件=犯罪、であろう)は、極端な例かもしれないが、「良い体罰」と「悪い体罰」というものがあるのだろうか。もしそのようなものがあると仮定した場合、それらを分ける違いはなんであろうか。

要素の1つとして、生徒に対する愛情があるかどうか、をあげる人が多いのではないだろうか。指示通りのプレーや練習ができない生徒に対する「腹立たしさ」や「イライラ」をただぶつけ、そのウサ晴らしとして叱っているのではなく、根底に深い愛情があって、いわば「愛のムチ」として体罰が行われる場合は、それは「良い体罰」であり、そういう体罰は受け入れられ、生徒も恨みを抱かずに、後年、感謝する、というような考え方だ。

深い愛情が根底にあることが人を育てるうえで重要であり、貴重であることに異論はないが、そのような立派な先生や指導者は現実には少ない。立派な先生や指導者に遭遇した生徒は幸せだが、それは結果論的な感想でしかなく、したがって、「自分は昔、体罰を含む厳しい指導を受けて、それを今では感謝している」というような人がいたとしても、そのことは、今回の桜宮高校の体罰を弁護する何の根拠にもならない。また、こういうことを念仏のように唱えていても現実的な対策のヒントにはならない。

ではどうすればいいのか。どこで線引きをすればいいのか。「軽いビンタ程度でも体罰として一切禁止」がさらに進んで、「言葉の暴力も生徒を傷つけるから強い口調での叱責も禁止」と何もかも禁止にすれば、教育や指導はおそらく不可能になるだろう。

これは非常に難しい問題であり、わたしには名案などとうてい思い浮かばない。

ただ、親が(親バカ愛ではない)真の愛情をもって子どもに接し、子どもの異常や異変を早期に察知し、今回のような悲劇が起こる前に手を差し伸べるしかないのではないか。

良い先生や指導者、あるいは友だちにめぐり会うかどうかは、偶然の要素が大きいので(その良い偶然の確率を高めることを期待して、親は私立の中学や高校に通わせるのであろう。その当否はともかくとして)、親が学校や先生、指導者をよく観察・評価し(というと不遜に聞こえるかもしれないが)、今回の桜宮高校の監督のようにサディスティックな指導者だと思われれば、退部あるいは退学をさせるしかないのではないだろうか。

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