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2013年11月

2013年11月30日 (土)

 追記

さきほど,下のエントリーをアップしてからちょっとググってみたらこういう記事を見つけた。

http://www.yuki-enishi.com/hospice/hospice-03.html

山崎章郎氏の文章だが,そのなかに

<それでは、それらは末期のがん患者さんに特有なことなのであろうか。否であろう。自力による自立や自律が困難な状況では、がんであろうがなかろうが、死が近かろうが、遠かろうが、人間としての尊厳が失われたと感じ、生きる意味を見出すことが困難になるのである。このことに気づき始めてから、僕は主に末期のがん患者さんだけにホスピスケアを提供している現在のホスピスのあり方に疑問を感じ始めたのだ。>

という文章があった。さきほどのエントリーに書いたことは,あくまでも1990年とそのあとにでた「病院で死ぬということ」,「続病院で死ぬということ」を読んだだけの(それ以降の山崎先生の活動内容を知らない)私の感想です。

明日からいよいよ師走:一人で病院で亡くなった母のことを考えながら 「病院で死ぬということ」,「続・病院で死ぬということ」を読んでみた

いよいよ(何がいよいよなんだ?)明日から12月。陳腐な感想だけど今年も残すところあと1カ月。はやいなあ。

月1くらいで更新したいのでブログに何か書いてみようと思う。最初の3年くらいは週1回の更新を“ノルマ”にしていたが。。。

とおもってココログ管理ページに入ってみたものの特に書きたいことはない。いや,今年は6月に母親が亡くなったが,ひょっとして年内にもう1回葬式(=父親)があるのではないか,という状態なので少し落ち着かないというのが本当のところだ。

先週,また,大阪へ見舞いに行ったが,移動時間を使って,長い間,積読状態だった山崎章郎氏の「病院で死ぬということ」と「続・病院で死ぬということ」を読み終えた。

山崎章郎氏はもともとは消化器外科医だが,1990年に発刊された「病院で死ぬということ」で”作家デビュー”したのち,1991年から,聖ヨハネ会桜町病院(ホスピス科)に勤務され,日本にホスピスケアを広めた先生だ。現在は,小平氏で在宅診療専門診療所をやっておられる。

今年の5月だったか,がん医療マネジメント研究会のシンポジウムを取材する機会があった。テーマは緩和ケアで,ドクターのほか,看護師,薬剤師,医療ソーシャルワーカー(MSW)などの発表があった。その際,MSWの人が,山崎章郎氏の本を現在の仕事を選んだきっかけとして挙げていた。

で,本の感想だが,正直,ちょっとがっかり,というか,拍子抜けという感想を持った。20年以上前の本だから仕方ないのかもしれないが,告知に絡めたエピソードやその対応の仕方などの記述や感想が随所に出てくる。しかし,今は,告知しないという選択はきわめてまれだと思う(それとも,いまでも親や配偶者が胃がん(進行がん)と診断され,胃潰瘍です,なんて言うことあるのだろうか)。

一般の病院で提供される医療は,治る患者を治すためためのサービスであり,それを効率的に提供するための組織であるため,末期がん患者のような,治療選択肢のなくなった「死にゆく」人々に適切な医療サービスが提供できる体制になっていない,という最初の指摘はその通りだと思うし,その問題意識にもとづいた山崎氏のホスピス医への転身は筋が通っている。その後のご活躍は広く知られるところだ(「病院で死ぬということ」をもとにした映画も作られたらしい)。

だが,読んでいてわたしは自分の感受性と何か違うもの,違和感のようなものを感じた。1つはすでに書いた,告知のことに関する過剰な(と私は感じた)記述。しかし,これは当時ではホスピスケアの普及のために乗り越えなければならなかった障害だと考えれば理解できる。

もう1つは,これもまあ,そういう本(そういう人が書いた本)だから仕方ないし,あたりまえなのだが,がん患者のことしか書かれていないこと。 ただ,ホスピスケアというのはなにもがん患者だけを対象としたものではないはずだ。

ここまで書いて,わたしは6月に(私のアメリカ出張中に)設備の整わない古い,療養型病院で一人で亡くなった母親のことを頭に思い浮かべている(また,いま,その同じ病院でチェーンストークス呼吸を繰り返している父親のことも考えている)。

「病院で死ぬということ」,「続・病院で死ぬということ」に出てくるエピソードは,私に言わせれば,幸せに亡くなった例ばかりである(もっとも,『病院で死ぬということ』の前半部分は,“悲惨な”例が紹介されていて,著者もそのように書いているが)。

20数年たった2013年においても(がんであれ,その他の慢性疾患の末期であれ),一般病院は治療のための医療サービスを提供する場所であり,改善の見込みのない患者や治療を拒否する患者に対して,スピリチュアルケア,と呼ばれるようなケアが提供されているとは思えない。

いや,ちょっと混乱しているが,私が言いたいのは,理想的なホスピスケアを提供する病院や体制(かかりつけ医,地元の開業医との連携などを含む)は20数年前と比べると整えられてはいるだろうし,実数も増えているだろうが,その一方で,“見捨てられている”患者の数は,その何倍にも増えているということだ。

(ここからさらに話は逸れるが)わたしは以前から,がんという病気に対する,いわば,“特別待遇”に疑問を持っている。もちろん,現在,すでに日本人のほぼ2人に1人が生涯に1度はがんに罹患し(男性は完全に2人に1人となっているはずだ),3人に1人ががんで死亡することから,国をあげてがん対策(がん対策基本法,拠点病院,10か年計画。。。)に取組むのは理解できる。

ただ,これは,実際に癌研有明病院と国立がんセンター中央病院に勤める2人の先生から昨年,聞いたのだが,がんは,患者にとっても,医療者にとっても「特別な病気」という雰囲気は(私1人の勘違いではなく),厳然と存在するらしい(ちなみに,お2人とも,がん専門病院の“総合内科”の先生であり,がんの専門医ではない)。

人は誰でも死ぬ。したがって,(ある程度の年齢に達した人間が)死ぬことそのものは忌まわしいできごとではない。

死が忌まわしいできごととなるのは,

1)子どもや若い人の死の場合

2)ある程度の年齢(私の基準では一応60歳以上)を過ぎても死を意識した生き方をしていない人(患者本人も家族も)の死の場合

3)回復の見込みがなく死が時間の問題となりながら,死までの時間が相当ながく,その期間中のQOLが著しく低下する(激しい痛みや副作用,羞恥心を刺激するケア,精神的苦痛)死の場合

―の3つである。

1)は説明不要であろう。がん患者とホスピスケアという文脈で語られるときは3)が対象となっていると思う。ただ,先にも書いたように,実際にはがん以外でも,死ぬまでの期間に,3)に該当するような苦しみを経験する人は多いのに,どうも,ホスピスケア=末期がんの患者,という図式があり,緩和ケアや緩和医療という言葉でも,がん患者だけを対象とするというイメージが強い。なによりも,システムそのものがそうなっている。

個人的には,われわれ日本人がこれから一番,克服しなければいけないのは,2)だと思う。どんなに医学や文明が進歩しようが,どんなに経済が発展しようが,生きているということは毎日毎時間,死に近づいていることと同義だ。

子どもやまだ30歳,40歳の若い人が病気でなくなるような事態(忌まわしい死の#1)を回避する努力,研究は今後もどんどん進められるべきだが,2)は医学・医療の問題ではなく,生き方・覚悟の問題だ。2)に対する訓練というか,意識を向上させないまま,医学とか医療・介護の改善ばかりを求める姿勢(自戒を込めて書いているのだが,わたしは今の日本はそういう状態に陥っていると感じる)では,本当の意味での良いホスピスケアや緩和ケアの発展・普及も進まないのではないだろうか(医療資源には限界があり,どこかで“トリアージ”がなされるからだ)。

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