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2014年5月

2014年5月27日 (火)

Lavie ZとWindows 8に翻弄されながら。。。Outlook.comってhotmailのことやんけ

昨年9月の海外取材のとき,ノートパソコン(LenovoのThinkPad)の調子が悪くなり,バックアップのパソコンを持っていなかったので道具不良で請け負った仕事ができないという最悪の事態を招きそうになった。症状としてはいわゆる熱暴走に近いもので,反応が極端に悪くなる,すぐに固まる,接続したUSBケーブルの認識が不安定になり撮影したスライド写真の取り込みができない,などであった。幸いそのときは,まさにパソコンを宥めすかすようにだましだまし使ってなんとか乗り越えたが,パソコン一台の危険を思い知ったので,帰国後すぐに新しいパソコンを一台購入した。

しかし,購入したのがNECのLavie Zという超軽量のウルトラブックで,OSもWindows 8だったので慣れるのに時間がかかりそうで触るのを避けていた。幸い,昨年の10月以降はThinkPad(こちらはWindows 7)のトラブルがなかったので,新しいパソコンは「積読」状態であった。

6月から国内外の速報取材の仕事が久しぶりに入るので,避けていたWin 8とLavie Zに直面することにした(ちとオーバーだが)。

Windows8の使いにくさは昨年買ったときに初期設定をやった段階でわかっていたし,ネット等の評判でさんざんであることも知っていたので,ずーと気分が乗らないでいた。しかも,昨年10月にLavie Zを購入直後,windows8.1がリリースされるなど,どうも相性よくないなあと感じていた。

昨日,今日と2日かかっていろいろ調べ,使ってみた結果,windows8は思っていたほど使いにくいものではないかもと思い始めている。スタート画面のへんてこりんなタイルのような画面を無視し(私のLavie Zはタッチパネルに対応していない),不要なアプリをすべてピン止めからはずしてしまえば,デスクトップからの作業はwindows7とあまり変わらない。win8.1になって復活したというスタートメニューは別になくてもそれほど不便だと思わない(8.1に無償でアップグレードできることは知っているが,その結果,不安定になったというネットでの書き込みなどもみたので,とりあえず,8.0になれることにした)。

メールはOfficeのoutlook expressで設定したが,Webメールとしてwin8から用意されたというoutlook.comのメールは結局,hotmailじゃないかと笑ってしまった。私はメインのプロバイダとしてアサヒネットを使っているが,幸か不幸か,アサヒネットはIMAP(?)だったか,正確には覚えていないが,ようするに従来のPOP以外のWebメールに統合される方式に対応していないらしく(自分のやり方がまずいのかもしれないが),outlook.comのアドレスに統合できなかったが,これはこの方がよい。へたに統合すると,いろんなメールがごちゃまぜになって使いにくいからだ。

結局,一番の課題はLavie Z。このパソコンは軽さは抜群なのだが,タッチパッドはよくない。これもネットでいろいろ書かれていて,反応を改善するドライバの情報なども出ているのだが,そもそも,Think Padのトラックポイントになれきっている私にとってタッチパッドそのものが結構ストレスだ。ワイヤレスのマウスを使うことも考えたが,せっかく,超モバイルなこのパソコンを買ったのだからタッチパッドだけで使いたい。キーボードもNECのLavieシリーズ自体は3台目(そのうち1台は自宅で家族で使っている。15-6インチの持ち運び用でないノートパソコン)なので,キーの薄さは抵抗ないはずなのに,やはり,小さいので打ち間違いと消去が多い。

来週引っ越しする仕事場は今よりも狭い部屋になるので,パソコン(3台か4台)とプリンタは無線接続にしようと考えている。このLavie Zにどこまで慣れることができるか不安はあるが,この機会にノマドワーカー(←この言葉,もう死語だよなあ)にもなれるよう練習するか。

というわけで,このエントリーはLavie Zで書いてみました。

2014年5月25日 (日)

<戦争カメラマンの一番の望みは、失業することだ>-ロバート・キャパの言葉らしいが。。。

事務所(といっても訪ねてくるのは宅配業者くらいで,実態は“仕事場”あるいは“書斎”として借りている部屋,でしかない)の移転を6月3日に決めたとたん,引越し日を含めて6月いっぱいがほぼ仕事で埋まり,少しでも前倒しでやっておこうと“日曜出勤”しているが,いっこうに調子が乗らない。仕方ないので暇つぶしブログでも書くか,という気分になっている。

タイトルの<戦争カメラマンの一番の望みは、失業することだ>は,魂をアツくさせる名言・格言集というサイトで見つけたもので,有名な戦争カメラマン,ロバート・キャパの言葉だそうだ。別にキャパの言葉にケチをつけるつもりはないが,こんなもの,職業すべてに当てはまることである。したがって,こういう言葉を読んでも私の魂はちっともアツくならない。

職業とは何ぞや?なんてことを真正面から議論するといろいろとややこしくなるが,<人が困っていることを解決する><人が不便に感じていることを解消する><人が不足していると感じているものを供給する>等々,類似の言葉はいくらでも出てくるが,仕事というものは本来そういうものであろう。

うがった(ひねくれた?)見方をすれば,世界から戦争がなくなるなんてことはない(=戦争カメラマンが失業することはない)と思っているからこそ,このような言葉を発することができたと言えなくもない(キャパが偉大な戦争カメラマンであるという事実はもちろん認めたうえで)。

わたしは非常に卑近な状況を頭に思い浮かべながらこの“魂をアツくさせる名言”にイチャモンをつけているのだが,実際に自分の仕事がなくなるような状況が近づいてきてもなお,仕事がなくなる方向で誠実に仕事を続けられる人は,一般の人々のなかにはそれほどいないのではないだろうか。

2014年5月18日 (日)

前の続き-同義反復-トートロジーに敏感になること

相変わらず「どうでもええことばっかり」書いているが、前のエントリー(論理的に生きる)を書こうと思ったのは、実は、こういう見出しを見たからだ。

運動しすぎは健康に悪い=英研究2件 「毎日運動」に警鐘

これは英国の研究を紹介した記事で、読むにあたいすると思えないので原著は検索していない。

私がひっかっかたのはこの見出しの前半部分だ。しすぎ、という言葉は過剰という意味であり、その言葉のなかに価値判断(正常より逸脱している)が含まれているから、運動し過ぎは健康に悪い、は、悪いものは悪い、と言っているのに近い。もっとも、見出しの後半に「毎日運動」に警鐘、とあるので、毎日運動は運動しすぎ、という意味だろうとはわかる(もちろん、論文ではもっと詳しい情報があるのだろうが)。

わたしが言いたいのは、新聞や雑誌、テレビ、ラジオ、日常生活で、これに近い表現というのをわれわれは結構使っているが、こういう言葉に敏感になり、不用意に使わないことも「論理的に生きる(=大人になる)」ことにつながるのではないかということだ。

海外の医学会のディベートセッションでも、proposition(命題)に “Too much ~ is bad for your health”というようなものがあり、こういう命題を見ると、論理的なディベートにならないと思ってしまう。もっとも、学会のディベートはエンターテイメント的要素を重要視しており(特に海外のは)、純粋なディベートとしての競技ではないので、あまり拘るのも野暮かもしれない。

ただ、日常で~過ぎは〇〇によくない、という表現は深い考えもなくよく使用されていると思う。いわく、食べ過ぎは身体によくない、寝すぎは身体によくない、ビタミンの取り過ぎはよくない、塩分のとりすぎはよくない、などなど。

まあ、わかりきった話なのだが、これらはいずれも、正常と異常(過剰)の基準はいくつか、つまり、~過ぎの過ぎがどこからか、というふうに問い直すべきなのだ。

話が脱線して恐縮だが(いつものことです)、最近、話題になっている、人間ドック学会が出した健康の新基準値、と、それに反発している専門学会側の議論には、「平均基準」と「価値基準」の混乱もあると思う。ま、この話題をまじめに議論するには、きちんとした準備と労力が必要なので、「徒然なるままに」書いているこのブログの守備範囲ではない。

論理的に生きるということ

久しぶりのエントリー。前回が4月9日だからまた一カ月以上空いてしまった。この一カ月、特に目新しいことはなかったが、大きな決断としては、仕事場(事務所)の引っ越しを決めたこと。6月の初旬に移転を予定している。もっとも、今いるところから数分の場所なので電話やファックス番号は変わらない。

論理的に生きる、などというタイトルを書いたが、これを自分流にくだいて翻訳すると、「意味のない悩みや拘りを持たずに、やるべきことを淡々とこなしながら生きる」ということか。

作家の藤本義一氏のエッセイで読んだ記憶があるのだが(正確な文言は覚えていないが、藤本義一であったのは間違いないと思う)、論理的な生活を送る、ことが重要というようなことが書かれていたと思う。

内容的にこれと近い言葉で私の好きな言葉に「大人は困ることはあっても悩むことはない」というものがある。子供はいろんなことで悩むが大人は悩まない。いろんな困った状況に遭遇することはあるが、自分のいる状況下でできることを最大限やろうとするだけ、というふうな意味であろう。

この大人はもちろん、本当の大人、という意味であり、悩んでも仕方ないことをウジウジあーでもない、こーでもないと考え込んで時間を費やしているのは、年齢がいくら高くても子供である。

何を聞いても、見ても、読んでも<あたりまえなことばっかり>と感じてしまうのは自分の個人的な性格が大いに関係していると思うが、歳をとったこともその原因かもしれない。ただし、年齢を重ねることで、状況を論理的に把握し、対処することが身についてきたのだとすれば、そして、その結果として、何を聞いても、見ても、読んでも<あたりまえなことばっかり>と感じるのであれば、それはそれで成長なのだと思う。

このブログでもすでに同じようなことを何度も書いているが、いまの日本は非論理的な甘ちゃんが多すぎる気がする。もっとも、マスコミなどはそれをわかっているからこそ、情に訴える報道や情報提供をしているのだろうけど。

なお、論理的に生きるは、合理的に生きるとしてもほぼ同義だと思うが、合理的、と言う言葉には、功利的あるいは効率的というニュアンスもあるので誤解をまねくかもしれない(論理的に生きる、というのもその言葉だけを聞けば、こなれない、しっくりこない言葉ではあるが)。

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