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2018年2月

2018年2月11日 (日)

平昌オリンピックが始まった

平昌オリンピックが始まったが、競技時間が早朝だったり、夜遅くだったりと、不自然な時間帯が多いようだ。ネットなどを見ると、欧米諸国でのテレビ視聴に適した時間にするために競技時間を強引に調整したようなことが書かれている。真偽のほどはわからないが、ありえる話だと思う。

昨夜のジャンプ男子ノーマルヒルはテレビでは見ていなかったが、深夜遅い時間まで競技をやっていたらしい。すべての選手が同じ時間なので平等といえば平等なのかもしれないが(風の影響など自然の変化については運不運があるがこれは競技の性質上、ある程度は仕方ないだろう)、スポンサーからの金のための極端な競技時間設定は、オリンピックという大会の卑しさをもろに表している。

わたしはオリンピックなどは(夏も冬も)もうやめにしてもいいという考えだ。開催地の招致熱は下がってきているらしいが(夏季大会が2024年のパリと2028年のロサンゼルスに同時決定したのも、招致を希望する都市が少ないからだと聞いた)、巨大な利権が絡むだけに自分が生きている間にはなくならないだろう。

大会があれば日本人選手をやはり応援するが、それは前記のことと矛盾しているとは思わない。

私の好きな競技は、夏の大会などでもそうだが、結果に曖昧さの残らない競技だ。冬のオリンピックであれば、スピードスケートなど。ジャンプも好きだが、風の影響を強く受けるし(これは仕方ないのだが)、一番気に入らないのはテレマークや飛形点などという採点部分だ。着地のときに転倒さえしなければ、あとは飛行距離だけでいいじゃないか。

フィギュアスケートも順位を争う競技としては全然興味はない。見るのは楽しいし、見ていればそれなりに自分でも評価しているが(もちろん日本人を応援する)、採点の曖昧さが耐えられない。

もっとも、フィギュアスケートはそれなりに競技の歴史があるので、素人が見てわからないだけで、専門家が見ればある程度は客観的な採点がなされているのかもしれない(と期待したい)。

わたしが今、もっとも懸念しているのが、2020年の東京オリンピックから正式競技に採用される空手だ。形競技だけでなく、組手競技も審判(採点)の標準化が全然されていないと思う。もっとも、柔道もそうだが、武道がスポーツになった時点ですでに多くのものを失っているというのがわたしの考えだ。

それから、オリンピックが始まると、メダルの数ばかり気にするのはおかしいとか、メダルが取れる、取れないばかりを重視するのはどうとか、などという意見が必ず出てくるが、これはおかしい。もちろん、テレビなどの報道の仕方に問題がないとは言わないが、競技なのだから結果に焦点が行くのは当然だし、目標がてっぺんであることは間違いないからだ。

選手にプレッシャーを与えるななどという人もいるが、選手が一番メダルを(できれば金メダル)をほしがっているだろう。オリンピックに出るような選手は競技が仕事なのであり(アマチュアスポーツとかアマチュア精神などという臭い言葉を信じている人がまだいるようだが)、メダルを取るかどうかは選手の今後の人生の選択肢に大きな影響を与えるだろう。テレビ局にとってもメダルを取る選手がたくさん出てスタジオなどに引っ張り出せば視聴率もあがる。最初からそういう大会(ビジネス)なのだから、メダルが期待できる選手の報道が過熱するのは仕方ない。

まあ、あんまりごちゃごちゃしたことは考えずに、見ておもしろい競技を楽しむことにしよう。

追記:今日(2/12)このようなヤフー記事を見た。宮原知子の得点は「盗まれた」? まさかの「68.95点」に海外から疑問の声続々  これだから採点競技は好きになれない。

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