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日記・コラム・つぶやき

2017年4月 6日 (木)

英語を教えるということ-その2

ネットで遊んでいたら、英語教育に関連したさまざまな記事やツイートが目についてしまい、仕事が手につかなくなった。まあ、基本、暇だからいいか。やらなければいけない翻訳や原稿書きが全然ないわけではないが、締切はまだだからちょっとブログで遊ぶことにした。

前回のエントリーに書いた通り、昨年半ばから、中学生(2年)の息子に「自己流」で英語を教えており(教えるというより、自分では訓練しているつもり)、春休みからは娘(小6)にも時々、教えることにした。しかし、矛盾しているようだが、小学校での英語必修化や教科化(2020年から全面施行されるそうだ)、大学や企業でのTOEICを中心とする英語テストの重視(偏り?)など、最近の『英語ブーム』には違和感を感じる。

ネットなどでは、TOEICerと呼ばれる人たち(毎回のようにTOEICを受け、満点[990点]をとるような人たち)がいる一方、アンチ英語試験のような人たちがいろいろつぶやいている。どちらも読んでいて面白いが、ちょっと冷やかに考えると、ほとんどの人は「ポジショントーク」じゃないかと思えてしまう。

英検やTOEIC、TOEFL、なんでもいいが、そういった英語テストに対するわたしのスタンスは昔から一貫していて<英語勉強のモチベーションになるのであれば、そういった試験を目標にすることは悪くはない。だが、そういった試験を受けなくても、英語の勉強[訓練]、努力を続けられる人はそれでもいい。どちらにせよ、肝心なのは実力> というものだ。

もっとも、TOEICのスコアなどで就職や会社の昇進が影響を受けるという現実が存在するので、<英語試験産業>がこれほど繁盛しているのだろう。

個人的には、各テストに合わせたテクニック的な勉強や指導は好きではない。そういった勉強の仕方は、期待とは逆に無駄な努力になるような気がする。また、当該テストの問題集などをやるとしても、例えば、試験の1週間前に少しやるだけ、くらいがちょうどいいのではないだろうか。

英語だけで行う授業(ダイレクト・メソッド、というのだろうか)に関しては、数年前にこのようなエントリー(楽天やユニクロの英語,社内公用語化に思うこと、「社内公用語」や「学会公用語」を英語にすることはムダな気がする)を書いていることからもわかるように、外国人(の先生)と話せば英語がうまくなる、とか、外国で暮らしさえすれば英語がうまくなる、というような考え方にはまったくくみしない。

学会については、最近、国内学会の取材仕事そのものがほとんどないので状況がまったくわからないのだが、日循や心不全学会、などは今でも、すべての発表を原則、英語でやっているのだろうか。状況をご存じの方がいたら教えて下さい。

ユニクロの社内英語公用語化のその後の様子に関しては、最近、President Onlineにこのような記事が載っていた<「英語強制」丸5年 ユニクロ社員はペラペラか?

いずれにしても、英語というのは簡単には習得できないし、教えるのもかなりやっかいだ。したがって、中途半端に英語を「マスター」しようなどとは思わないほうがよいような気がしている。

2017年3月31日 (金)

英語(外国語)を教えるということ

2017年も4分の1が過ぎてしまった。今年の3月はどうも寒い気がする。もっとも、来週からは暖かくなるようだ。近所の花見スポットは来週の水曜日(4月5日)あたりが満開になるらしい。

仕事も相変わらずお寒い状況が続いている。2月中旬から3月上旬にかけて、いくつか取材仕事が続いたが、それを除くとまとまった仕事はない。ただ、5~7月の仕事がポツポツと入り始めているので、桜の開花が一気に進む来週あたりは、仕事の打診も急増するかもしれない(と期待している)。

アメリカのトランプ政権のごたごた、北朝鮮の金正男暗殺やミサイル発射、森友問題や豊洲移転問題など、性質や次元が異なるので、十把一絡げにするのは妥当でないかもしれないが、どれもこれも根底には人間の愚かさが共通項としてあるような気がする。

首題の<英語(外国語)を教えるということ>だが、4月から中学2年になる息子の学校での成績が悪いので(塾には行かせているのだが)、1年の2学期くらいから、英語の特訓を始めた。数学も最初の頃は見ていたが、小学校の算数ならともかく、数学になると教えるこちらもあやふやな部分が多いので、数学は学校や塾におまかせしたほうがよいと判断した。

英語は20年以上前になるが、語学学校や英語塾で英会話や英検の受験クラスを教えたことがあるので(準一級までは教えていた)息子をみっちり鍛えてやろう、と始めてみた。ところが、これがなかなかうまく行かない。自分の子どもだから特に強く感じるのかもしれないが、「なんでこんなことがわからないのか」「何度もやっているのに、なぜ同じ間違いをするのか」という場面がしょっちゅうある。

文法書(レベルの高いものから中学生向けの参考書まで)などを改めて読んでみて、英語を教えるということがかなりやっかいなことだと再認識した。

近頃はYouTubeで適当に検索すると、さまざまな人の英語講座の動画(サンプル)が見られる。文法事項をどういうふうに説明しているのだろうと、有名予備校講師やTOEIC講師の動画をいくつか見たが、わかりやすいと感じたものは一つもなかった。

息子に対するわたしの英語「特訓」では、今のところ学校で使っている教科書しか使っていない。費やしている時間の半分は音読だ。音読の前に文法事項を説明し、本文の意味を日本語で説明(和訳)。意味を理解させたうえで、英語を身体で覚えさせる。本文の英語もノートに書き写させ、和訳は私が作ったものをノートの反対側に貼って、対訳のノートを作る。

結局、むかし流行った、國弘正雄氏の『只管朗読』 、『只管筆写』をやっているだけだ。

もっとも、学校の英語の教科書(開隆堂のSunshine)にもいろいろ問題があり、マーク・ピーターセン氏の著書(「日本人の英語はなぜ間違うのか?」)などを読むと、もっと違う教え方もあるのかなあ、と迷ったりもする。

仕事の不調(= 収入の低下)と子どもの学業不調(= 成績の低下)、さらには、糖質制限の不調(最近は全然制限できていないので体重は増加するばかりだ)と、頭痛の種を抱えながら、はやくも4月に突入だ。

2017年2月26日 (日)

近況- OCNモバイルone、トランプ、きくち体操

2月もあと2日で終わり。1年の6分の1が過ぎたことになる。仕事の状況は相変わらずだが、今月半ばから全国のクリニックや病院でドクターの話を聞く(高血圧)仕事が立て続けに入り、ここ2週間は少し忙しい。28日(火)には福島県の小名浜まで行く。

タイトルには近況と書いたものの、あまり書くことはない。

ソフトバンクのiPhoneからMVNO(格安SIM業者。正確にはMVNOは“仮想移動体通信事業者”[MVNOのVがVirtual = 仮想])のU-mobileに変えたことは2年ほど前に書いた。それを最近、OCNモバイルoneに変えてみた。U-mobileも使い勝手に問題はなかったのだが、ある月、見覚えのない請求項目が加わっていたのでサポートに電話したが全然つながらないうえ、ようやくつながったオペレーターも「調べて後日折り返す」と言ったきりまったく連絡してこない。頭に来たのでMNP転出することに決めた。

OCNモバイルoneの電話窓口もつながりにくいがU-mobile(親会社はUNEXT)よりはマシだし、モバイル通信のデータを家族でシェアできる(同じアカウントでSIMを5枚まで発行してもらえる)ので、近いうちに配偶者と子供2人(中1と小5)もOCNモバイルoneでスマホに変えようと考えている。050のOCN plusが基本料なしで使え、加入者のスマホ同士なら通話料無料(データもおそらくフリー)なので、家族との連絡にはよいかとも考えた。もっとも、050-の電話はインターネット電話なので音声品質は期待できない。

話変わって1月に就任した米トランプ大統領。日本ではトランプの大統領当選をはっきりと予測していたのは木村太郎氏と渡瀬 裕哉氏(池田信夫氏のアゴラなどによく出てくる)のようだが、興味深いのは、トランプ当選を当てた人はトランプの大統領就任以来のパフォーマンスに対して何故か擁護的・弁護的であることだ。予測と好き嫌いはなかなか切り離せないもののようだ。一方、ヒラリー当選を予想していた(そして予想を外した)多くの政治学者(藤原帰一氏など)は今でも反トランプだ。自分の好き嫌い(希望的観測)が評価・行動予測に影響を及ぼし、自分の研究対象であるはずの政治現象ですら、自分が見たいように、解釈したいようにしか理解できていないこと(少なくともそういう方向へ判断がゆがむ傾向にあること)すら気づいていない。それで大学教授などやれるんだからフリーターの自分などからは、ウラヤマしい限りだ。

話題はまたまた全然変わるが、きくち体操、というものの存在を最近はじめて知り、少し本など読み始めている。きくち体操は知らなかったが、わたしも毎朝、自己流の体操を20~30分やり始めて以来(半年くらいは続いているだろうか)体調がけっこうよくなってきた。以前は、膝痛がひどかったので、そのための体操が中心だったが、最近は膝ももちろんやるが、そのほか身体全体や手首関節の柔軟、ひっぱり、曲げ伸ばしをやっている。この歳になると、「運動」よりも「体操」のほうが身体にいいのだろうと直感的に思う。

2017年1月 9日 (月)

マイナンバー(個人番号カード)にまつわる不安

年が明け,来週くらいから確定申告の準備でも始めようかと思っているが,今年からマイナンバー(個人番号)を記入する欄ができ,いろいろと不安(というよりも不信感)が湧いてきた。

そもそも本来ならすでに全国民に配られているはずのマイナンバーカードの通知カードが結構な数,配られていないというではないか。さらに,カード(マイナンバーカード)の発行は任意(希望者のみ)らしいが,システムの不具合でうまく発行できない市町村が結構な数,あると聞く。

かくいう私は通知カードが配られたとき(2015年末頃だったかな?),早い時期に家族全員のマイナンバーカードの発行を申し込み,4人全員で市役所に出向いて発行してもらったが,そのとき用意してあったノートパソコンと職員の不慣れな対応には非常な不安を覚えた。

また,カードを持っている人はわかるだろうが,カードを入れているケース(?)とも呼べないセロファン用紙じゃないかといいたくなるほどペラペラなカード入れ(個人番号の部分のみ隠れるようになっているので,IDとして使う場合に番号が見られる心配はない,ということらしいが)は非常にお粗末だ。

個人事業主なのでこの時期,支払主から支払調書を送ってもらうが,その一覧表である法定調書や支払明細書(私に報酬を払い源泉徴収した企業が税務署に提出する書類)にも受給者の個人番号を入れる必要がある。したがって,早い会社では昨年の夏前からマイナンバーカードのコピーや通知カードのコピー(通知カードの場合は,さらに身分証明書のコピーも必要)を送ってほしい,と連絡があったが,その送り方が会社によってかなり異なる。

書留郵便の料金分の切ってを貼った封筒を送ってきてくれる会社もあれば,郵送料(書留郵便料金)はこちらが立て替えるがその金額をのちに振り込んできてくれる会社,普通郵便の封筒を送ってくるだけの会社,はたまた,個人企業に近いところでは,個人番号を教えてくれ,というメールの連絡だけのところも複数あった。セキュリティで守られた専用のシステムを作って,そこからオンラインでカードの写真を送るような会社もあった。

簡易書留くらいなら郵送料などたいしたことはないので,自分で払って書留で送るのが安全なのかもしれないが,面倒なのでメールに(マイナンバーカードの)コピーを添付して送ったこともある。あるいは,パスワード設定してファイル転送サービスでアップロードもした。

しかし,たとえば10社程度であっても,各会社がどの程度,慎重に個々のマイナンバーを扱ってくれるかは相手まかせにするしかないわけで,どう考えても不安が残る。

そもそも,冒頭に記したように,マイナンバーの発行の段階で相当な不手際は発生しているようで,何千億円だか何兆円だか知らないが,結局,ドブに莫大な金を捨ててしまった住基ネットの二の舞になるのではないだろうか。

年金記録などでもそうだが,悪意のある行為でなくても,記入や入力段階での誤記載というのは当然あるわけで,そういったものをどの段階で拾ってどう修正するか,といったことまでを含めて,マイナンバーの活用を考えているのか。あと1年か2年もすれば(正確なところは調べていないが),銀行や証券会社その他金融機関などの口座もすべてマイナンバーと紐付けされるらしいが,官民とも問題なく運営する体制が整っているのか。

カードの発行ですらスムーズに行かず,番号も手書きでかかせて集めているだけの現状を考えると,なにか恐ろしい気がする。

わたしにとっての唯一の“救い(?)”は,収入も金融資産も微々たるものしかないので,どっちにしても自分にはたいした影響はないだろうということだけだ。ただ,悪事にエネルギーと頭脳を使おうとするやから(振り込め詐欺のような組織)にとっては,こういう中途半端で欠陥の多そうなシステムは格好の獲物になるのではないかと心配だ。

2017年1月 4日 (水)

「何となく、/今年はよい事あるごとし。/元日の朝、晴れて風無し」(石川啄木)

謹賀新年  今年もどうぞよろしくお願いいたします

今年の三が日はいいお天気だったのでタイトルの啄木の歌を思い浮かべた人が多いのでは?と思ってちょっとググってみたらやはりこの歌に触れているブログがすでにあった。

啄木の“甘っちょろい”(= 感傷的な)歌は日本人の心に響く。わたしも昔はけっこう好きだったし、今も実は嫌いではない。

Meiji今年も年始は元日のみ配偶者の実家(埼玉県北部)へ年始の挨拶に行き(子どもたちはお年玉の集金)、2日は午前中に家族4人で明治神宮へ初詣。午後3時半から昨年に続けて、新宿のルミネざよしもとでお笑いを見た。

2日だったからであろうか、明治神宮は思っていたほど混んでおらず、2時間と見積もっていた参拝時間が1時間で済んでしまった。新宿へ戻るには早すぎるので、娘が以前から行きたがっていた原宿・竹下通りを散策したが、通りは人でごった返していて、どの店も混雑していたのですぐに疲れてしまった。

ルミネざよしもとのお笑いを見るのも3回目でさすがに飽きてきた。よほど見たい芸人でも現れない限りもう行くことはないだろう。夜はサザンタワーの中にある今半万窯でちょっとぜいたくなすき焼きディナー。普段、回転寿司しか食わせていないのでまあいいか、と奮発したが来月のカード支払日には慌てるかもしれんな。

正月の晴れやかな天気とは裏腹に、仕事の見通しはまったく立たない正月だ。2008年1月1日に個人事業主(フリーランス)として開業したので、年末には丸十年経過となる。独立した際、これからの現役期間を20年間と定めたので、今年はマラソンの折り返し点をめざしての1年だ。こんな状況なのに、私生活では8月に無謀な計画を立てている。いやはや、一体どうなることやら。

2016年10月29日 (土)

ピコ太郎(PPAP)現象(?)ってなんなんだろうね。

特に書きたいこともないのだが、最低限、月に1度はブログを更新することを、数少ないこのブログのregular readersに対するお約束としているので、とにかく何か文字を埋めることにする。

今日のテーマは<ピコ太郎現象>。実はわたしはピコ太郎こと古坂大魔王の「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」の動画が世界中でブレイクしていることを昨日まで全然知らなかった。あまつさえ、ギネスブックに登録されたことなどは(PPAPは、10月29日付けの全米ヒットチャートで、77位にランクイン。日本人アーティストとしては松田聖子以来26年ぶりの快挙だったが、長さわずか45秒。Billboard Hot 100にランクインした曲としては、史上最も短い曲、としてのギネス認定らしい)。

PPAPのことを知ったきっかけは、ツイッター上で、昨日(10/28)外国特派員協会で行われたピコ太郎氏の記者会見で通訳を務めた橋本美穂さんの通訳が素晴らしいと話題になっていたからだ。

YoutubeでPPAP動画と記者会見を見たが、確かにおもしろい。ただ、これが世界130か国で見られ、再生回数が億の単位、その結果、数千万円とも数億円とも言われる広告料がピコ太郎氏に入ってくるとは驚きだ。

なんであんな単純な動画が国境を越えてこれほどまで受け入れられるのか。オリラジのパーフェクトヒューマンや、2~3年前に流行ったAKBの恋するフォーチュンクッキーとも共通点があると言えなくもないが(軽快なダンスなど)、PPAPは圧倒的に短い。また、単純かつナンセンスの極みだ。

世界は平和(悩みがない)のか、それとも破滅へ向かっているのか。ホントに不思議だ。

2016年9月15日 (木)

10日間の臨時休業

思うところあって昨日から約10日間(9月25日まで)、休業することにした。

もっとも、最近は開店休業に近い状態が続いているから生活はあまり変わらない。

Tomioka_2

今さら夏休みのことを書いても仕方ないのだが少しだけ。

この夏休みは独立以来初めて、子どもたちを旅行に連れて行けなかった。唯一行ったのは日帰りの「群馬旅行」。世界遺産の富岡製紙場とその近くの自然史博物館(ここは数年前にも温泉旅行の帰りに寄ったことがある)、それと、こんにゃくパーク。富岡製紙場は、子どもよりも私の方が興味を持ってガイドの話を聞いた。

冬には初めてのスキー旅行に連れて行ってやりたいが(今年2月に計画し、宿も予約したが娘と私がインフルエンザに罹り断念)、このぶんだと無理かな。

2016年8月23日 (火)

リオオリンピック雑感-もう夏も終わりか

いよいよ8月も残すは1週間。リオオリンピックも終わってお休み気分も終了か。私は年初から“お休みモード”だが。。。(“お休み気分”ではない)。仕事の調子は相変わらず低調で、それについては書けば愚痴にしかならないので書くのはやめよう。

リオオリンピックは生で見るには徹夜しなければならない競技が多かったので、日本時間の午前中にライブ中継された一部の競技(卓球など)のみテレビで見て、あとはテレビのニュースやYouTubeで見ていた。時間にして一番長かったのは「YouTube観戦」だったと思う。

いわゆる採点競技(体操、新体操、シンクロナイズドスイミング、冬期のフィギュアスケートなど)は昔からあまり好きでないが、その気持ちがさらに強まった。体操の日本団体優勝は喜ばしいことだし、演技の素晴らしさに異議を唱えるつもりはないが、オリンピックでメダルを争うレベルの選手の演技に採点で差をつけることには無理があるとしか思えない。それに比べて、水泳や陸上など、測定できる数字(タイムや距離)を競う種目はわかりやすくてよい。

微妙なのが、柔道、レスリング、など、いわゆる「格闘系競技」か。特に柔道は、毎回のようにルール改定や見直しがあるようで、今回のオリンピックでは、前回に比べて「組むこと」の必要性が強調されたそうだが(組手を拒否してばかりいると“指導”を取られる?)、それでも100kg超級のリネール vs 原沢の決勝戦などみると、リネールの優勢勝ちとは素人目にはどうしても感じられない。明らかに原沢の方が積極的に攻めていた印象だ。

そもそも、武道とスポーツは重ならない部分が大きいはずで、そういう意味ではオリンピック競技(スポーツ)になった時点で柔道ではなくJudoになってしまっているから、まあ、仕方ないのかもしれない(柔道家が自分のことをアスリートと呼ぶことにわたしは違和感を感じる)。

2020年の東京オリンピックでは空手、いや、Karate が初めて正式競技になるが、どうなることやら。息子が空手をやっているので、年に何回かは試合を見に行ったりもするが、空手の審判や判定も「なんだかなあ」という気のすることが多い。

卓球やテニス、バレーボール、サッカー、バスケットボールなどの球技は、陸上や水泳と並んで判定の問題の少ない競技だろう。ライン際の判定などが問題になることは時々あるし、サッカーはファウルの取り方などで恣意性を感じることもあるが、テニスやバレーボールなど、ビデオによるチャレンジの機会が用意されている競技もあるし、純粋な採点競技や柔道などに比べれば、はるかに公明正大だろう。

こんなことを書いてはいるが、東京オリンピックは必ず観戦に行くと思う。そのときの懐具合にもよるが。。。オリンピックの観戦チケットって、いくらくらいするのかなあ。

2016年7月18日 (月)

男性更年期障害(LOH)かもしれんな - でも、テストステロン補充療法(TRT)はやらない

もうすぐ関東も梅雨が明けそうだが、2014年からわたしの生活全般に覆いかぶさる暗雲はいっこうに消え失せる気配がない。今年は5月、6月の2カ月は忙しかったが、1~4月と今月が過去最低レベルなのでトータルでも最悪を更新してしまった。ただ、不思議なもので<不況>も3年目に入ると、慣れてしまうのだろうか、(状況は悪化の一途なのに)切迫感が薄れている。無力感と言い換えてもいいかもしれない。

6月にニューオリンズから戻って以来、大きな仕事はないのに、疲れ、だるさ、(昼間の)眠気、ヤル気の減少、身体の固さと痛み(身体はもともと固い)、が続いている。頻尿も以前からあったが、最近はその頻度がさらに高くなっている。

独立以来、9年間、一度も健康診断を受けていないので、受診してもいいのだが、中途半端に治療できる問題などが見つかると生活が破綻してしまうので、受診を避けている。

今の症状は男性更年期障害(加齢性腺機能低下症;LOH症候群)に当てはまる部分が大きいので、テストステロン補充療法(TRH)を試す手もある。しかし、やるつもりはない。理由の1つは、日本では保険適応があるのは注射剤のみで、ゲル製剤が保険では使えないので不便であること(自費診療ならゲルを出してくれるクリニックもあるのかもしれないが、調べていない)。

それよりも大きな理由は、補充療法、という概念がどうも好きになれないことだ。

症状があまりにも強く、QOLの低下が著しい場合や、生命予後に影響するような場合は、対処療法であっても、TRHやホルモン補充療法(HRT;女性に対するエストロゲン補充)を施行するのも必要であろう。ベネフィットとリスクを理解したうえで、そのような治療を受ける個人がいてもそれは構わない。

ただ、(生理的な)加齢の結果生じるホルモンレベルの低下に対して、減ったものを補充する、という考え方は、あまりに安易な気がする。もっとも、こんなことを言っていられるのは、今の状態がまだそれほど深刻でないからかもしれないけど。

運動や食事、生活習慣の改善で体調をよくすることには気をつけたいが<自然な加齢>に対してはあまり抵抗したくない(3年ほど前に“成功”した糖質制限ダイエットからはすっかり遠ざかってしまった。金がかかるんですよ、あれを本気でやろうと思うと)。

<自然な加齢>の範囲を狭くし、病的加齢(=病気)の範囲を拡大することが、アンメットメディカルニーズの掘り起し、ということなんだろうが。。。。。

2016年6月18日 (土)

こういう記事は嫌いだ―東洋経済ONLINE 「才能ない」生意気な子供でも天職は見つかる

東洋経済ONLINEに、

「才能ない」生意気な子供でも天職は見つかる 数学者・秋山仁氏が説く努力の尊さと儚さ

 という記事がアップされている。やらなきゃいけない翻訳仕事があるのに、こんな記事にかみついてブログなんぞ書いている場合じゃないんだが、仕事のヤル気がでないため、ついついラクなブログ書きに流されてしまう。

ただ、こういう「才能がなくても努力を続ければ」とか、「能力がなくてもやる気があれば」とか、「成績はよくなかったが好きだったから続けられた」、のような陳腐な言説はもういいかげん、卒業したほうがいいんじゃないだろうか。

なにが陳腐か。このような言葉は、結局、わたしは成功しました。わたしには能力がありました。と言っているに過ぎないからだ。

<別に成績が良かったわけでもなかったけど、他の教科と比べて、算数や数学だけは好きだった(秋山)>って、これ才能あるってことですよ。本当にできない子はまったく好きになれません。

もちろん、記事のなかにも<例えば、中学校の算数がとても出来ない子どもがクラスで1、2番になるためにはどうしたらいいか。3〜4カ月ほど毎日3時間の勉強を続ければ、成績がビリの子どもでも1番になれると僕は強く確信しています(秋山)>という発言があり(←でも、これ、あたりまえのことですよ。秋山センセイじゃなくても、アサカシキオでもそう確信します)、そのあと続けて、

<ただ、ビリの子どもが数学をそこまで熱心に勉強できるかというと、難しいじゃないですか。本当に成績を上げたければ、数学を習得したければ、努力を続けられるんです。でも、その動機がない。じゃあ、動機はどうしたら生まれるのかというと、ここからが親御さんの腕の見せどころです(秋山)>(←親の役割が重要、という点については、アサカシキオも同感です)、という動機づけ、つまり、どうやったら<ヤル気>がでるかについて、いよいよ素晴らしいアドバイスがあるのかと思っていると、

<教育の原則は「褒めること」と「しかること」なんです。それを適切に行っていくと、子どもは非常に伸びる(秋山)>(←なんじゃこりゃ?こんな手垢のついたアドバイスを聞いて、子どもの<ヤル気>を伸ばせる親がいるのだろうか)。

たしかに、自分の子どもや生徒に「褒めること」と「しかること」を使い分けて、子どもを奮起させ、成績も上げている親(教師でもいいが)はいるだろう。ただ、その周りには、褒めて/叱って伸ばす、といったような抽象的な言葉だけでは何の足しにもならない、できない子、もおおぜいいるのだ。

東洋経済ONLINEのこの記事についたコメントも5つほど読んだが、どれも、秋山先生の言っていることに賛成、私も才能なかったが頑張って続けていたらなんとかものになった、など、自分はうまく行った、といったような成功者のコメントだけだった。

自分がなぜこういった言説に反発を感じるのかと考えてみると、こういうことを、さも意味のある助言でもあるかのように何のためらいもなく、言ったり書いたり発表する人は、「やりたいけどどうしてもできない」、「そもそもヤル気がしない」、「わかっちゃいるけどやめられない」、といった人間が存在することを畢竟理解できない人たちという気がするからだ。

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